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全国指名手配犯

警察庁指定重要指名手配犯

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岩手県宮古市女性殺人事件
指名手配犯
小原 勝幸(おばら かつゆき)

生年月日:1979年11月16日
出身地:岩手県
身長:170センチメートルくらい
体格:中肉

事件の裏に隠された驚くべき警察の隠蔽体質

2008年7月1日午後4時30分ごろ、岩手県下閉伊郡川井村(現・宮古市)の県道沿いの沢で、宮城県栗原市に住む無職・佐藤梢さん(当時17歳)の遺体が発見された。司法解剖の結果、死因は頭部の外傷または頸部の圧迫によるもので、首を絞められたあと、川にかかる橋の上から落とされた際に頭を強打した可能性が高いとされた。岩手県警宮古警察署捜査本部は、梢さんの死亡推定日を6月30日~7月1日と発表した。(のちに6月28日午後9時ごろから7月1日午後4時ごろまでと訂正している)

捜査の結果、梢さんは知人の小原勝幸(当時28歳)と数日前に会っていたことが判明。小原の乗用車の車内から梢さんの血液などが検出され、携帯電話の使用状況などから梢さんと連絡をとっていたことも判明した。

梢さんは殺害される前、交際相手だった男性の家にいた。男性の証言によると、梢さんが男性の家を出たのは6月28日午後10時20分ごろ。その際、梢さんは「友達の彼氏(=小原)に呼ばれた。恋愛相談。私、殺されるかもしれない」と言い残して出かけたという。これ以降、梢さんの行方は分からなくなっている。

一方、梢さんを呼び出した小原は、梢さんの遺体が発見された7月1日の夜に見通しの良い直線道路で電柱に突っ込むという事故を起こしている。午後9時40分ごろ、夜釣りを終え帰宅途中の40代男性が、田野畑村の山あいの県道脇で電柱にぶつかりエンジンルームから煙があがった状態で停車している小原の車を見つけた。

小原は当時黒っぽいTシャツとジーンズ、サンダル姿だった。小原の右手の甲が腫れ上がって血が付いていたため、男性がそのことをたずねると、小原は「女とケンカして殴った」と答え、「おれはおしまいだ。もう死ぬしかない」と話していたという。男性はその後、小原を実家まで送っている。

翌日の7月2日、小原は三陸海岸に面した自殺の名所である田野畑村の鵜の巣(うのす)断崖から「飛び降りる」という電話を友人にかけ、交際相手の女性には「俺、死ぬから」というメッセージに断崖の写真を添付したメール、弟には「サヨウナラ、迷惑な事ばかりでごめんね」などといった自殺をほのめかす内容のメールを送っていた。

7月3日午前11時半ごろには鵜の巣断崖から小原のものと思われる財布・タバコ・サンダル・車の鍵・携帯電話のメモリーカードなどの遺留品が清掃中の町役場の職員によって発見されている。自殺の可能性があると考えた捜査本部は、地元の田野畑村漁協に協力を依頼。展望台から沖合100メートルまでの海域を捜索したが、小原に関するものは何も発見されず、飛び降りた形跡もなかった。

その後も小原の遺体が発見されなかったため、警察は小原が自殺を偽装し逃走したと断定。事件発覚から約1カ月後の7月29日、小原を「殺人・死体遺棄事件」の犯人として公的懸賞金100万円を懸け、全国に指名手配した。ここまでが警察・メディアが発表した事件の経緯である。

その後、元警察官でフリージャーナリストの黒木昭雄さんが2008年9月から独自に行った取材・調査により新たな事実や矛盾点が判明した。黒木さんがこの事件を追求するきっかけとなったのは、TBSで放送された未解決事件に関連する番組への出演だった。小原の事件の担当となり、現地で取材を進めるうちに不審な点に気がついたという。黒木さんの取材内容は以下の通り。

事件関係者相関図
両事件時系列
小原と梢さんが初めて会ったのは事件前年の2007年2月。小原は後輩と宮城県登米市内のショッピングセンターで梢さんとその親友の2人をナンパし、その後それぞれがカップルになっている。小原の後輩の交際相手は殺された佐藤梢さん。(のちに破局している)、小原の交際相手は佐藤梢さんの親友で、佐藤梢さん。つまりナンパした女性2人は全くの同姓同名で、高校時代からの親友だったのである。(ここからは生存している小原の交際相手の女性を梢Aさん、殺害された女性を梢Bさんと表記)

交際をスタートさせてから約3カ月後の2007年5月1日、小原は恐喝の被害に遭う。小原は自分の先輩にあたる男性(Z氏)に仕事を紹介してもらったものの、仕事がきつかったことから逃げ出した。そのことに対して謝罪しようと、小原は自分の弟と交際相手の梢Aさんと3人で日本酒を持参してZ氏の自宅へ謝罪へ行った。(梢Aさんは家には入らず、車で待機していた)

その際、Z氏が「顔に泥を塗った。迷惑料として120万円支払え。支払えないなら指を置いていけ」と言い日本刀を小原の口の中に入れて脅し、借用書を書かせた。さらに「保証人を立てろ」と言われたため、小原はその場にいた弟に頼んだものの、弟は「関わりたくない」と拒否。小原はとっさに梢Aさんの名前と携帯の電話番号を書いた。

のちの梢Aさんの証言によると、この時小原は震えながら戻ってきて小指から出血しており、白いジャージにも血がついていたという。また、黒木さんの取材に対しZ氏は、素手による暴力と金銭を請求したこと、保証人を立てさせたことは認めているものの、それ以外の疑惑については否定している。

翌年の2008年6月3日、小原は岩手県久慈警察署に被害届を提出した。Z氏に恐喝されて以降、小原は金が払えないため約1年にわたり逃げ続けていたが、ある日ネットでふと自分の名前を検索したところ、某捜索サイトでZ氏が「ザ・ヤクザ」というIDを使い自分を探していることが発覚。そこには小原の顔写真も掲載されていた。また、小原とZ氏と同じグループの知人から「見つかったら(Z氏に)殺されるぞ」などと言われていた。

一度は被害届を提出したにも関わらず、6月28日、一転して小原は梢Aさんに「被害届を取り下げる」と伝えてきた。梢Aさんは以前から小原の強引な性格と暴力に嫌気がさしており、何度も別れを切り出していた。そのため恐喝事件の被害届取り下げの件で小原から呼び出されていた梢Aさんは、6月28日、待ち合わせ場所の盛岡競馬場の駐車場に停めていた車から小原がいなくなった隙を見て逃げ出し、宮城県内の実家に電車で帰った。

小原は所持金がほとんどなく、車のガソリンも半分以下だったため梢Aさんを追いかけることができず、執拗に電話・メールで「被害届を取り下げるから戻ってきてくれ」「お前が一緒じゃないと取り下げられない」と連絡してきたが、梢Aさんは取り合わなかったという。

小原は梢Aさんが連絡に応じないことから、今度は同じ名前を持つ交際相手ではない方の梢Bさんを呼び出した。警察の見解では、この後小原が梢Bさんを殺害、自殺を偽装し逃走を図ったとしている。

小原は28日以降、自身の父親にも協力をあおぎ、久慈署に何度も被害届の取り下げ依頼の電話をした。久慈署は小原の父親に対して、「こういった男(Z氏)を放っておくと勝幸くんと同じような目に遭うやつがまた出る」「あと2〜3日したら逮捕するから」と言い、取り下げを拒否した。小原は友人にも、このことについて「久慈の警察に電話して(Z氏)の件取り下げようとしたら駄目だった」「県警が事件扱い処理したから明日か明後日呼ばれそう」と30日にメールを送っている。

7月1日には、小原は友人にあてて「手がこんなで※仕事すぐキツいかも知れないけど、運転代行ならバイトすぐ出来るから、手が復活するまではそうしようと思う」とメールを送っている。※小原は前日の29日に右手に大ケガを負っている(後述)。

この日の午後4時30分ごろ梢Bさんの遺体が発見されている。小原は同日午後5時ごろに滞在していた友人宅から外出したが、7時30分ごろに戻ってきた際に様子が一変。友人に抱きつき、「もう田野畑村にいられない」「頑張っても頑張っても誰も認めてくれない」と泣きじゃくった。近くを車が通ると、「警察が来たんじゃないか」と怯えていたという。

同日夜の自動車事故については先述の通りである。ちなみにこの時点で、梢Bさんが亡くなった件についての警察発表はまだされていない。このことから、黒木さんは「小原が誰かに梢Bさんの遺体発見の事実を伝えられていなければ(友人宅で)突然取り乱すことはなかった」と話しており、何者かによって梢Bさんの死を知らされたから取り乱したのではと推測している。

7月2日の朝、小原は父親に「午前中で済むから久慈警察署に送ってくれ」と頼んだ。しかし警察へは行かず、今度は親戚に「車が故障したから思惟(しい)の大橋(V字形の深い渓谷を渡る大きな橋)まで乗せてくれないか」と連絡。車に乗っている途中、何度も行き先を変更し、最終的に鵜の巣断崖へと続く一本道のあたりで小原を降ろしたという。親戚が最後に見た時、小原は携帯で誰かに電話をしていたという。

9時27分に小原は弟に「サヨウナラ 迷惑な事ばかりでごめんね」とメール。同じ頃、友人にも「いま鵜の巣にいる」「飛び降りるところだ」「世話になったな」と電話をしている。連絡を受けた友人がバイクで鵜の巣断崖へ行ってみると、小原は断崖の先に座って携帯電話で話をしていたという。友人は「相手は(自分の家から刑事に電話した内容と同じ話をしていたので)たぶん久慈署の刑事だったと思う」と話している。

友人は、小原が飛び込み自殺をするような雰囲気ではなかったことから大丈夫だろうと判断して帰っている。これが小原の最後の目撃証言となっている。

この時、梢Aさんも小原から自殺をほのめかすメールを受け取っていたことから、恐喝事件の被害届を出した久慈署の刑事に様子を見に行ってもらうよう連絡。しかし黒木さんの捜査によると、当時警察が鵜の巣断崖に駆けつけた形跡はなく、積極的に小原を捜索しようとしなかったという。地元住民も、当時警察が鵜の巣付近で動いている様子を知っている人はいなかった。

小原の父親が警察に警察犬での捜索を依頼すると、「警察犬は数十分単位でお金がかかりますよ」「高いですけど払えますか?」と言われたという。黒木さんは「梢Bさん殺しの犯人と目する人物を捜索しないのはおかしい」として、警察が何かを隠蔽するために、あえて小原を捜索しなかった可能性があると推測している。

梢Bさんの遺体が発見された翌7月2日の早朝5時、宮古署は殺害された梢Bさんではなく、恐喝事件の保証人だった梢Aさんの自宅に「(梢さんは)死んでませんか?」「生きていますか?」と電話している。このことは電話を受けた梢Aさんの父親が証言している。この時点で警察は佐藤梢さんが2人いることを把握しておらず、恐喝事件と今回の殺害事件を結びつけていたため、梢Aさん宅に電話したことが考えられる。

その後、警察は恐喝事件の被害届を受理したことを否認。小原の父親が電話で問い合わせても、「それ(取り下げないでくださいということ)は言ってません」と回答した。これに対して黒木さんは、「もし久慈署が恐喝事件をきちんと捜査していれば、梢Bさんの殺害事件も起こらなかった可能性がある」と指摘。このことが事実として発覚すれば、県警にとって大変なダメージとなるため組織的に隠さなければならなくなったのでは、と話している。

上記のように警察の発表内容と黒木さんの捜査した内容には食い違う点がいくつもあるが、他にも発表されていない不審点がある。

【アリバイ】
事件当日の小原にはアリバイがあったことを、小原の弟と友人が証言している。梢Bさんの死亡推定日時は6月30日〜7月1日だが、小原は29日の夜は弟宅に宿泊。翌30日と7月1日は友人宅にいたという。弟と友人の家は田野畑村にあり、梢Bさんが発見された川井村からの距離は約100キロ、車でも片道2時間かかるという。梢Bさんを殺害し、遺体を捨てて帰ってくるというのは時間的にも距離的にも無理、というのが黒木さんの見立てである。

なお、友人はこのことを警察に話したが、警察からは死亡推定日時については伝えられず、「マスコミが来ると思うが(アリバイのことを)何もしゃべるな」と言われたという。

【手のケガ】
黒木さんが入手した梢Bさんの遺体検案書によると、死亡推定日時は6月30日〜7月1日。しかし6月29日の時点で、小原が右手に大きなケガを負っていることが友人に送った写真から判明している。同日に小原は弟の家を訪れており、弟夫婦が夕方ごろ小原を病院に連れて行った。弟によると、食事の際、小原は箸が使えなかったためフォークを出したという。

また、診察をうけた済生会岩泉病院の医師によると、小原は右手の小指と薬指、小指側の手の甲を負傷しており、握力がほとんどない運動機能障害の状態だったという。その状態で人の首を絞めて殺害するのは極めて難しいと証言している。また、ケガの理由について小原は医師に「壁に手を打ちつけた」と言っているが、刃物で何度も突き刺したような傷だったという。

【梢Aさんの証言】
黒木さんが梢Aさんの存在を知り本人に接触しインタビューした際、梢Aさんは「(梢Bさんが)多分私の身代わりになったんじゃないですか」と証言。梢Aさんは、今回の事件が恐喝事件の保証人にからんだもので、自分の代わりに梢Bさんが小原に連れていかれたのではないかと思っている。

【逃走手段】
もし小原が警察の見立て通り自殺を偽装して逃走した場合、サンダルを崖に残しているため素足で逃走することになるが、場所柄素足の状態で歩くのは不可能。断崖から国道に出るまでは3キロあり、国道に出たとしても公共の交通機関が全くない場所のため、車を盗むなどして逃走しなければならないが、そのような形跡・痕跡は全くなく、歩いている目撃情報もない。

また、当日親戚が車で小原を送っているが、その際小原は手ぶらで何も持っていない状態だった。それにも関わらず、遺留品がたくさん残されているのは不自然。このような状況から、黒木さんは小原が既に死んでいる可能性があるとし、「飛び降りたのではなく、誰かに連れ去られ殺害された可能性が高いと考えた方が合理的」と推理している。

【公的懸賞金】
当時、懸賞金がかけられていたのは全国の指名手配事件1,100件のうちわずか8人。通常は時効が迫っている事件や逮捕された場合に死刑が想定される重大事件に優先して懸賞金をかける。また、懸賞金は事件発生から6ヶ月が経過したものに対してかけられる規定があるにも関わらず、警察庁の判断で小原の指名手配からわずか3ヶ月あまりで懸賞金をかけるのは通常ではあり得ないことである。

【Z氏に対する警察の対応】
小原が失踪して以降、恐喝事件に対しての捜査がストップしており不自然。警察に問い合わせたところ、被害者(小原)がおらず公判に持ち込むことができないため捜査を保留していると回答があったが、日本刀を所持かつ使用して脅しているため、銃刀法違反として捜査を継続し、家宅捜索などを行うべきなのに何も手をがつけられておらず、Z氏も普通に生活している。

黒木さんは2009年5月13日に警察への情報提供と捜査進展の要望を兼ねた記者会見を開き、梢Aさんも同席した。しかし警察はその後も全く動くことはなかった。黒木さんが岩手県警に対し、「情報提供をしたにも関わらずなぜ捜査をしないのか」取材した際、県警は「捜査はしている、内容については答えられない」と曖昧な回答をしている。

黒木さんは2009年6月に日弁連で小原の父親とともに記者会見を行う。父親は「(息子が)どこかで殺されているのではないか」「もう1回捜査してほしい」と訴えた。指名手配の停止を求め、人権救済を申し立てた。

2ヶ月後の2009年8月、田野畑村の住民に対して説明会を開催。事件のチラシを配り、「この事件は田野畑村のものだけではない。もっと国民に広めて追求し、いけないことは潰さないと」と訴え、署名活動を行った。その結果、当時の田野畑村の人口の54%にあたる2,170人分の署名を集めた。

翌年の2010年4月には、岩手県庁を訪問し署名を提出。第3者による、事件調査委員会の設置を求めた。しかし、これについても握りつぶされる形となってしまった。さらには、通信社や地元のマスコミが、事件についてほとんど報道しなかったことも黒木さんにさらなるショックを与えた。黒木さんの妻によると、黒木さんは会見後、日に日に元気がなくなっていったという。

同年6月30日、小原の父親が、公開捜査によって息子が犯人と断定され家族の名誉が傷つけられたとして、指名手配の差し止めなどを求める裁判を盛岡地方裁判所に起こした。父親の訴えによると、「息子は遺体発見の2日前から弟の家にいて、時間的なアリバイがかなりある。警察が犯人と決め付けた根拠の説明がない」などとして、岩手県警本部長と警察庁長官、岩手県と国に対して、指名手配の差し止めと760万円の損害賠償を求めた。しかし訴えに対し、貝原信之裁判長(小川理津子裁判長代読)は「情報提供を受けるための手段として相当」と述べ、請求を棄却した。

同年11月1日、小原にかかる懸賞金が100万円から300万円に増額された。

同年11月2日午前11時10分ごろ、この事件について独自に取材・調査を行っていた黒木昭雄さんが千葉県市原市今富の寺の敷地内に停めた車の中で死亡しているのを黒木さんの息子が発見した。車内に燃えた練炭があり、関係者宛ての遺書も残されていたことから自殺とみられる。享年52歳。

黒木さんは助手席に横たわり、救急隊員が現場に着いた時には既に亡くなっていた。練炭は後部座席に置かれていた。黒木さんは前日の1日に「仕事で打ち合わせに行く」と家族に言い残して外出し、帰宅しなかったという。同日の午後4時ごろにはホームセンターでカードを使って練炭コンロ2つや軍手、マッチなどを購入。レシートも残されていた。

亡くなる前に警察官だった父親の墓の前でワンカップの酒を飲み、妻の兄に携帯電話をかけていることも判明。10月に医者から処方してもらった睡眠剤を飲み自殺を図ったとみられる。黒木さんは2年2ヶ月に渡り身銭を切って岩手県での取材を重ねており、調査にかかる活動資金が大きな負担となっていた。知人に数百万単位の借金もあり、家の売却も考えていたことから経済的にかなり苦しい状況だったとみられる。また、自身の訴えがなかなか警察やメディアに認められないことなどから、精神的にも追い詰められた末の自殺と思われる。

黒木さんは、警視庁に23年間勤務。警視総監賞を23回受賞する、優秀な捜査官だった。しかし警察組織のあり方に疑問を感じ、41歳で退職しフリージャーナリストに転身。警察の不正や捜査ミスを追求し、「捜査するジャーナリスト」と呼ばれていた。

【黒木さんの遺書の一部より】
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今さら言う事もありませんが、岩手の事件が私の人生を変えました。
これから行くところには会いたい人が沢山います。
佐藤梢さんにも会いたいし、事件の真相を知りたい。
2010.11.1 黒木昭雄
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<岩手県警ホームページ>岩手県宮古市の殺人事件 報奨金(犯人逮捕の情報提供謝礼)上限300万円



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