未解決事件ファイル
城丸くん事件(1984年1月) |
1984年1月10日、北海道札幌市豊平区で城丸秀徳くん(当時9歳)の行方が分からなくなった。失踪前に自宅に電話があり、城丸くんが電話に出たという。その後、城丸くんは「ワタナベさんのお母さんが僕の物を知らないうちに借りた。それを返したいと言っている」といい残し家を出て行ったという。
母親に頼まれて当時小学6年生だった兄が城丸くんを追いかけたが、自宅から少し離れたアパートで城丸くんを見失ってしまった。城丸家が資産家だったため当初は身代金誘拐の可能性も考えられたが、身代金を要求する電話がなかったため、警察は公開捜査に踏み切った。城丸くんの家族の知り合いの中で「ワタナベ」という姓の人物に身に覚えがある者はおらず、また町内に「ワタナベ」という人物がいたが城丸くんの家族と親しかったわけではなかった。
その後の警察の捜査によって、城丸くんは行方不明になる直前、兄が行方を見失った近くのアパートの一室に入ってゆく姿が近所の小学生に目撃されていたことが判明。このアパートに住む元ホステスの工藤加寿子(当時29歳)を重要参考人として事情聴取した。工藤は城丸くんの訪問は認めたが、家を間違えられたからすぐに帰したと証言した。その3週間後に工藤はアパートを引き払い、親族の家へ引っ越すなど不審な行動を取っている。
城丸くん失踪から2年以上が経過した1986年12月30日、城丸くんの自宅から70キロ離れた工藤の嫁ぎ先である新十津川町の自宅から出火し、工藤の夫が死亡した。夫には1億円あまりの保険金がかけられており、工藤はそれを請求した(後に取り下げられている)。その後、夫の弟が焼けた家を整理していたところ、人間の骨が入っている袋を発見し、警察に届け出た。
当時のDNA型鑑定では焼けた人骨から身元を確認することができなかった。警察は工藤を再度事情聴取したが、その際にポリグラフで特異反応が示され、大罪を犯したことを匂わせる発言をしていたが、骨の身元が判明していなかったこともあり、この時はこれ以上の追及は断念された。
1998年、短鎖式DNA型鑑定を用いた結果、その人骨が城丸くんのものであることが判明し、同年12月7日に工藤を殺人罪で起訴した。殺人罪の公訴時効成立の1ヶ月前だった。この時点で既に傷害致死・死体遺棄・死体損壊罪の公訴時効は成立していた。検察は工藤が借金を抱えていたことから身代金目的で誘拐して殺害したとしたが、死因を特定できなかったために殺害方法は不詳として立件せざるをえなかった。
工藤は一審の罪状認否で「起訴状にあるような事実はない」と主張したこと以外は、被告人質問における検察官のおよそ400の質問に対し、全て「答えることはない」と返し黙秘した。なお、弁護人は被告人は黙秘権を行使する意向であるとして、被告人質問を実施すること自体に反対していた。
検察側は多くの状況証拠から工藤が殺人罪を犯したとして無期懲役を求刑。一方で弁護側は無罪を主張した。工藤は経済的に困窮しておらず、身代金目的の誘拐を企てる動機もないとされ、その他殺害に及ぶに相応する理由も捜査では見出せなかった。しかし、遺体を長期間保管したり、火災で焼損した骨を隠しておくなど、当初の捜査時に事件との関与をほのめかす供述をしていることが事実認定された。
2001年5月30日、札幌地裁は工藤の家から見つかった骨が城丸くんのものであることを認定し、その他の証言により、電話で城丸くんを呼び出したのは工藤であるとした。また、多くの状況証拠から城丸くんが工藤の元にいる間、工藤の犯罪的行為によって死亡した疑いが強くなんらかの致死行為があったことを認定したものの、殺意があったかどうかは疑いが残ると認定し、工藤に対し殺人罪の無罪判決が下る。傷害致死・死体遺棄・死体損壊罪は公訴時効が成立していたため、これらの罪で有罪にすることはできなかった。
裁判では黙秘権の行使について、札幌地裁判決は「被告人としての権利の行使にすぎず、被告人が何らの弁解や供述をしなかったことをもって、犯罪事実の認定に不利益に考慮することが許されないのはいうまでもない」と示した。検察側は控訴した。
2002年3月19日、札幌高裁は控訴を棄却。一審の判示を支持し、加えて「弁護人が被告人質問をすることに反対していたとしても被告人質問を行うことは不当ではないが、実際に被告人質問を行ってみて黙秘することを明確にした被告人に対してなおも質問を続けたのは、被告人の黙秘権を危うくするもので疑問」と一審の検察官の質問の在り方にも黙秘権保護の見地から批判的な判示をした。検察側は最高裁への上告を断念したため、工藤の無罪が確定した。