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未解決事件ファイル

風船おじさん失踪事件(1992年11月)

1992年11月25日午前11時半ごろ、自称冒険家の鈴木嘉和さん(当時52歳)が宮城県金華山沖の東約800km海上をゴンドラで飛行中に消息不明となった。

失踪2日前の11月23日、鈴木さんはヘリウム入りの風船を多数つけたゴンドラ「ファンタジー号」の試験飛行を琵琶湖畔で行うと発表。前日の22日夜から風船を守るため、琵琶湖畔で野宿していた。試験飛行の場には、電話で呼び出された同志社大学の三輪茂雄教授と学生7人、朝日新聞の近江八幡通信局長、前日から密着していたフジテレビのワイドショー「おはよう!ナイスデイ」取材班、鈴木さんの支持者らが集まった。

運輸省(現・国土交通省)は安全性に疑問があることから飛行許可は申請を受理しておらず、この日はあくまで200メートルあるいは300メートルの試験飛行を行うという条件で申請を受理していた。しかし実際には鈴木さんは密かにアメリカまでの飛行を強行しようと考えていた。

ファンタジー号は120メートルまで上昇して一旦は地上に降りたものの、鈴木さんは16時20分頃「行ってきます」と言ってファンタジー号を係留していたロープをはずした。「どこへ行くんだ」という三輪教授に「アメリカですよ」との言葉を返し、重りの焼酎の瓶を地上に落とし周囲の制止を振り切って、アメリカネバダ州サンド・マウンテンをめざして出発した。

鈴木さんの計画は「ヘリウムガスを詰めた風船に乗って、高度1万メートルに上昇すれば約40時間でサンフランシスコに行ける」というものだったが、ファンタジー号は大小26個の風船を檜の風呂桶にくくりつけた自作のゴンドラで、実際には計画に見合った機能性や耐久性はなかったと推測される。

飛び立った直後にテレビ局が鈴木さんに携帯電話で連絡すると「ヘリウムが少し漏れているが、大丈夫だ」と返事が返ってきた。鈴木さんの家族へは夜10時ごろ携帯電話で連絡があり、その後も1時間ごとに電話がかかってきたという。風船の様子がおかしいこと、思ったより高度が上がらないこと、海に出たこと、煙草を吸ったことなどを家族に語った。翌24日の朝6時に家族に電話したのを最後に、携帯電話は不通となった。

24日深夜からイパーブ(遭難警報を発信するブイ式の装置)によるSOS信号が発信され、25日の朝8時半に海上保安庁第三管区海上保安本部の捜索機ファルコン900が宮城県金華山沖の東約800km海上で飛行中のファンタジー号を確認。この時鈴木さんは捜索機に向かって手を振ったり座りこんだりして、SOS信号をやめていた。

海上保安庁が確認した際のファンタジー号の高度は2,500メートルで、高いときには4,000メートルに達した。約3時間監視したが、鈴木さんが手を振っていたこと、ゴンドラの中の物を落下させて高度を上げたこと、遭難信号も消えたことから、飛行継続の意思があると判断して午前11時半に捜索機はいったん追跡を打ち切った。

以降SOS信号は確認されていなかったが、家族から捜索願が出されたことを受け、12月2日に海上保安庁はファンタジー号が到着する可能性のあるアメリカとカナダとロシアに救難要請を出した。識者の見解では、「捜索機の最終確認から早くて3日、最長でも1週間で高度はゼロになっただろう」とのこと。

鈴木さんが消息を絶った当時の風向きの状況などから、鈴木さんは目指す東の方角からやや北に流され、ロシアのカムチャッカ半島界隈まで進んでいることも予測されたが、発見には至らなかった。

鈴木さんがファンタジー号で旅立った際の積載物は、48時間分の酸素ボンベとマスク、1週間分の食料、緯度経度測定器、高度計、速度計、海難救助信号機、パラシュート、レーダー反射板、携帯電話、地図、成層圏の零下60度以下の気温に耐えるための魚の冷凍庫内で試した防寒服、ヘルメットに紫外線防止サングラス等であった。

出発時の防寒具は、スキーウェアと毛布5枚。無線免許は持っていなかったため、無線機は積まれていなかった。搭載していた高度計についても、使い方を理解していなかったという。食糧については、鈴木さんは日頃から絶食の訓練をしていたと称しており、スナック菓子のみだった。

鈴木さんは1940年東京生まれ。親の職業だったピアノ調律師となるために、国立音楽大学附属高校に進学した後ヤマハに就職している。その後44歳までピアノ調律師を続けていたが、音楽教材販売会社「ミュージック・アンサンブル」を起業、ピアノ向けのマイナスワンテープ(オーケストラから特定の楽器を外して録音した、練習用のカラオケ音楽テープ)の販売を開始した。主催した音楽会では、最後に風船を飛ばす演出を行っていたという。

1986年には銀座で音楽サロン「あんさんぶる」を開店。さらに麻雀荘やコーヒーサロン、パブレストランなどを経営していたがいずれもうまくいかず、1990年にミュージック・アンサンブルが4億円から5億円の負債を抱えて倒産。20人以上の債権者がおり借金苦に陥った。債権者に対し、ファンタジー号による太平洋横断で借金を返済すると語っていたという。



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